俺が瞽女ごぜラァーになった日

右脳被殻出血による左半身麻痺と感覚障害。
この後遺症は死ぬまで消えない。

じゃぁなんでそんなにバカみたいにリハビリするのさ、結局はムダじゃねぇ⤵ と自らの声にあらがいながらもやめない。

そんな俺をどこからか見ていたのか、視界の片隅より近寄ってくる瞽女さんが居た。
2階の会議室に置いてある3人が縦列で歩く姿の藁人形。
プレートには「越後瞽女・新井」とある。
誰が置いたのか不思議。

書棚からは「高田瞽女最後」という題名の本が目に飛び込んでくる。
俺には覚えがない本だ。不思議。なにものかの意志に気付き調べる。

目が不自由という身体に宿る命を精一杯燃やして歩き続けた生涯があらわれる。
なんとも魅了される生き方だ。
その時代に目の不自由な女性が自活する道は、按摩あんまさんか瞽女さんで生きるしか無かったのだ。

吸い寄せられるように東本町の「瞽女ミュージアム」へ行った。
「ほんの50年前まで東本町の雁木を瞽女さんが歩いて銭湯へ行く姿を見て、子供心にも不思議な威厳を発する特別な人でした」
とミュージアムのW女史からお話をうかがった時に、今は1人も居ない生前の瞽女さんの姿をしっかりと記憶しているW女史の人生の何と豊かな事かと感じた。

関連する書物をむさぼり読んでいると、どの本にも異能の瞽女、赤倉カツが出てくる。
没年1919年44才の死だった。

うん⤴ 俺の愛車ポンコツ号3500のナンバープレートも1919、不思議。
絶世の美女にして芸事も天性の才能に溢れ、瞽女社会の厳しい掟に背いてでも生き方を変える事なく貫いたその屹立きつりつした人生に「後遺症が治らな〜いっ」と叫ぶ俺の何と矮小わいしょうなことか。

赤倉カツの写真も無ければ唄の音源も動画も残っていないが、
唯一、赤倉カツの魂を伝えるモノに斎藤真一画伯が描いた「赤倉瞽女の死」という小さな一枚の絵が瞽女ミュージアムに保管、伝承されている。

生き方に迷ったり草臥くたびれた時には、会いに行けばよい。
赤倉カツの超絶とした悲哀ひあい溢れるその死に姿に、何を想う。
百年の時を越えて賦活の波動が押し寄せる。

 
次回は「大丈夫だぁ。シナプス可塑性を信じて生くる」です。

 



脳出血社長の賦活コラム

株式会社金剛 社長 遠藤伸一