フールは、消えた従姉を探すため、人間界に戻ることになった。
まだ扉は開いている。大丈夫だ。
なるほどエレンコスは、こんなふうに時空の扉から向こうの世界に行ってしまったらしい。

僕は人間の世界しか知らずに育ったけど、ここは不思議な世界だね。パパ。

ここは神だけが行き来できる深淵の次元だ。地上の時空間で生きている人間や他の生物たちも皆、意識の深いところではこの世界とつながってかかわりを持っているんだが、表層ではそれを認識することがない。

人間たちには目で見えているものが全てだよね。

ところが意識の底でつながっているこの深淵なる多層宇宙は、訓練することで第三の眼を開き、人間も表層で認識したり介入したりすることができるようになるんだよ。

祭司とか聖賢とか僧侶とか、一部の不思議を起こす人たちは、それができているんだね。

そういえば昔、出家してひたすら座禅をしていた坊さんが、この世界に通じて悟りをひらいたらしいのだが、その弟子たちはこの多層宇宙のことを『三千大千世界』と呼んでいたらしい。

三千は数字の3000ってこと?

いや、ひとつの世界が1000集まったものを『小千世界』、『小千世界』が1000集まったものを『中千世界』、『中千世界』が1000集まったものを『三千大千世界』と呼ぶらしいんだ。つまりこれは1000の3乗を意味する。計算すると10億のパラレルワールドがこの世にあるってことを言ってるらしい。

10億どころか僕には無限にあるように感じられるけどなぁ。

この教えが広まった時代の『零』や『無限』の概念は現代とはまるで違うから、1000の3乗なら無限に近いことを意味していたんだろう。この宇宙の構造は自己相似が限りなくつづく永遠回帰の世界だから、無限のように見えるけど、しかしどこかに限りがないと宇宙という閉じた世界が成立して行かないと思わないかい?

それもそうだけど・・・パパは石に閉じ込められてずっと動けなかったのに、よくそういう細かいことわかるんだね。

そうさ、今はインターネットというやつがあるだろう?いながらに情報を網羅できるあれはまさに多層宇宙の縮小モデルだよ。私の守護者はそういうものを使っていろいろなことを調べていたが、最近その世界では人工知能が発達しているようで、人間は人間で神に近づこうとしているように見えるよ。

それも多層宇宙の相似形が入れ子になる法則が働いているんだね。

ところで今、そこに開いている10億分の1の扉は、まちがいなくあのおねえさんのいる世界に通じているよね。

大丈夫だ、閉じてしまう前にさぁ入ろう。


おねえさん、再びこんにちは。

ぎょぎょっ?何で?消えたり現れたり。一体どこからなの?

驚かせてごめんなさい。実はおねえさんに聞きたいことがあるのだけど・・・
今日はスタッフがお休みでよかった。こんな場面に出くわしたらいろんな意味で大騒ぎだわ。
などと、この事態を冷静に考えているウィルさんだった。

何?聞きたいことって。

ある日突然犬がここに現れたりしなかったですか?

え?犬?何で?

実は僕のいとこが迷い犬になってしまったみたいで。

ちょっとまって、ちょっとまって。いとこが犬って・・・それじゃぁあなたも犬なの?・・・まさか、ああ、キツネ?だからドロンするのね?これはしたり!尻尾は三つ?九つ?

心霊現象ならめずらしくもないけど、妖怪は初めての体験だわ。これは難題だぞ。
ウィルさんは普通の人が考えないことを普通に考え始めた。

いや、僕は犬とかキツネじゃなくて人間の変態・・・

な、何ですってヘンタイ?け・・・警察呼ぶわよ。あっち行って。
これは女性として普通の反応だった。心霊や妖怪を許容するウィルさんでも、変質者は許容できないらしい。だが、自分を変態呼ばわりするヘンタイはいないだろう。

待ってよ、おねえさん。話を聞いて、お願い。

ヘンタイの話を聞いてどうするのよ。
さすがにフールも予想外の反応におどろいてしまった。
いけない、いけない、日本では生物学用語と同じ『変態』という用語で変質者を呼ぶのを忘れていた。


アブノーマルの『変態』じゃなくて、メタモルフォーゼの『変態』だよ。

メタモルフォーゼ?え?・・・え~っっっ!?それじゃキツネでもヘンタイでもなくて、もしや昆虫妖怪だったの?


ちがうよ、妖怪じゃなくて神さまだよ!

何よそれ?自分を神さまなんていうヤツはほとんど妖怪かヘンタイなんじゃないの?
そうか、僕って神族の自覚がないから、自分に『さま』つけちゃってるよ。まいったな。

だったら、アバターなら知ってる?

アバターって、あの映画の?


あの映画みたいに、僕たちの実態は別のところにあるんだよ。この肉体はゲノムがあればどんな形にも変態する借り物なんだ。神さまが形態を変えること、つまり僕のいう『変態』は『アヴァターラ』というんだけど、映画『アバター』の語源はそこからくるんだ。そうだ・・・そうそう確か日本では『権化』と言えばよかったんだね。神格は変わらず姿を変えて環境に適応していくの。僕たちのアバターは昆虫と同じように蛹の中で全く違う形に変態することができるんだ。蛹になるたびに若返るから不死なんだよ。

それじゃ、権化する神さまって、マジで完全変態の昆虫だってこと?

昆虫だと成虫の寿命が短いでしょう?昆虫じゃなくて、もともとは『龍』だよ。哺乳類や爬虫類でもなく、飛翔器官があるけど昆虫類でも鳥類でもない。

りゅう?あれは空想とかじゃなくて、リアルな神さまだったの?



時代背景とか地域によって龍は神だったり悪魔だったり微妙だけど・・・大丈夫だよ、僕は人間に悪さをしないから。僕は人間のゲノムで、いとこは犬のゲノムで『権化』しているだけのことなんだ。

じゃぁ、お父さまは石に『権化』したってこと?

いや、これはまたちょっと違うんだ。石にはゲノムがないから生物学的に『権化』はできないんだよ。これは閉じ込められている、っていうのが正しいのかな。

よくわかんないけど、ともかく私は今『権化』した神さまとご対面しているってことなの?へぇ~。それなら私は預言者?神さまと対面するって、つまりキリストさんやムハンマドさんみたいなことでしょ?

いや・・・おねえさんは預言者じゃなくて、守護者らしいよ。向こうの世界で門番やってる叔母さんが、それを自覚して欲しいって言ってた。

何?それ。勝手に守護者とか、自覚しろとか、意味がわからない。

神族とは言っても、僕はずっと人間界で暮らしていたから神さまとしての自覚はないし、いろんな事情がわからないんだ。それで神さまたちのいる世界に行って、過去のことを知りたい思うんだけど、それにはいとこを連れ戻さないといけないんだ。彼女はここの異次元ポケットから現れているはずなんだけど、心当たりはないですか?

あるわよ。

ホント?どこに?

マイホーム。ここにはいないの。
つづく
Back
パンドラ
Next
フールの秘密